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[コメント] 009 RE:CYBORG(2012/日)

こんなところに押井守にラブレターを出した人がいる。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 最初こそ009はストレートなヒーロー作品として世に出てはいたのだが、時が経つに従い、徐々に変質していき、80年代に描かれた作品になるとあまりに哲学的内容になってしまい、私が読んでも「?」なものになっていった。掲載史が次々に変わったのも、結局はその作品の内容が読者の方に受け入れられなくなってしまったからだと思われる。  でもそういう作品だからこそマニアによって常に解釈され続けており、その意味では確かに名作たりえる作品だろう。

 ここまで変化してしまったことについて一つ言えることは、「サイボーグ009」は当初の目的を時代の変遷に従ってあくまで貫いたからだと言えるだろう。

 始まりは冷戦構造の中で“平和を作り出すヒーロー”として誕生した。当初はあまり深くは考えてなかったのかもしれないが、“正義”ではなく“平和”をテーマにしたところに問題があった。時代が変わるにつれ“平和”という言葉は多岐にわたるようになり、それに会わせるかのように物語も又複雑化していく。“平和”が多様化していくに従い、その目的である「“平和”とは何か?」という根元的なものに移行していったからだろう。

 冷戦構造で東西の代理戦争が行われている中では、争いがない状態が平和であり、世界の人々が立場や思想を越えて仲良くしていくこと。ジョン・レノンのイマジンそのものの世界だった。だが徐々にそれは変質していく。80年代以降になると地球のキャパシティ問題が取りざたされるようになり、貧富の差は仕方ないと世界中の(いわゆる先進国の中では)統一見解になっていくと、目に見える形での“平和”は陳腐化され、009たちの活躍の場がとても制限されるようになってしまったのだ。だから80年代の009たちの活躍は現実の戦いを離れ、異世界や精神世界の中へと移行するようになっていった。

 そしてこの当時の009の物語の訳の分からなさが実はそれ以降、なかなか作品を作りにくくさせていた(80年代のアニメ版及び劇場版は、変な意味でそれを表現しようとして上手くいかなかったし、これは最初から無理だったように思えてならない)。

 この時代の009を前提としてでなければこの作品は語れない。

 さて、それでもうちょっと脱線した話をさせていただこう。

 本作は脚本及び監督を神山健治が務めてるが、本来脚本は神山が、監督は押井守が行うはずの作品だった。しかし神山が持ってきた脚本を読んだ押井は、「これはお前が監督すべきだ」と返したという逸話が残されている。だけど、あくまで推測ではあるが、そんな生やさしいものじゃなかったんじゃなかっただろうか?

 この作品を観ていると思うことだが、この作品の中には極めて多数の押井イズムというか、過去の押井作品へのオマージュが詰まっているように見える。例えばそれは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)の日常のループ世界であったり、『ダロス』のモニュメントであったり、『Avalon』の少女であったり、「セラフィム」(漫画)の天使の化石であったり、『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』の兵器描写や、テロ描写であったり。それこそ押井の過去作品からの引用が山ほど出てくる。先ほど書いたことだが、石ノ森の009に描かれていた哲学的部分を押井の思想で描いて見せたのだ。

 こんな脚本書いた神山の気持ちも、こんな脚本見せられた押井の気持ちもなんとなく分かるような気がする。

 神山は、これを大ファンの押井が監督してくれるから。という期待が高く、「どうです。僕はあなたの作品がこんなに好きなんです」という、一種のラブレターのような気持ちで差しだしたのではないだろうか?(これはあくまで私の妄想である。が、実際私が神山と同じ立場に立たされたら、全く同じことをしていただろうと思ってしまった)  それに対し、押井の方はどうだっただろう?過去の自分が作った作品の数々が、突然目の前に出されてしまい、しかもそれを書いた人がワクワクした顔つきで反応を待っていたとしたら…

 作家というのは誰でもそうだろうが、過去の自分の作品を見せつけられることを好まない。特に良くも悪くも作風を意識して変化させ続けている押井にとって、過去の作品を見せつけられるのは拷問に近い。しかもそれを、失礼ながら中二病的なものとして書かれていたなら…

 そう考えると、押井が神山にこの脚本を返してしまったのは、むしろ突っ返したと考えた方がいいだろう。「こんなものが作れるか!」それが押井の本音ではなかったかと思われる。

 …あくまで推測だが。

 でも、そういう光景が目の前に現れてしまい、全編を通してもうニヤニヤ笑いが止まらない。「ああ、これじゃ押井も嫌がるわ」とか、「本気でこれ押井に作らせるつもりだった?」とか、物語以前に頭の中はツッコミの嵐。ある意味もの凄い楽しさを覚えて観ていた。

 さて、それで肝心の物語についてだが、これは石ノ森章太郎の「009」と押井イズムの融合した作品として考えると理解しやすい。

 かつて押井は『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』で日本人が謳歌している平和が、実はほとんど妄想の産物であることを突きつけたのだが、それをもっと先鋭化してみせた作品といえる。かつて神山自らTVアニメ「攻殻機動隊SAC」で笑い男や個別の十一人を通して描いたものを、もっと押井的な味付けをしてみた。

 『パトレイバー2』は既に20年前の作品である(書いていて驚いた)。その時代とは全く違った国際状況の中、同じテーマを国際的に描こうとしたのが本作となる。

 理由不明の一般人による自爆テロが世界を覆う中、その理由を探る009たちサイボーグの活躍が描かれることになる。しかし話はどんどん脇道にそれ、ついには人類の遺伝的体質とか神とか出てくるようになって行ってしまった。ある意味とても壮大で、そしてとても小さな妄想の産物と言っても良い。

 でもこれはおそらくは神山健治という人物が、答えの出ないテーマに対して、本当に真摯に向き合おうとした結果なのだろう。神山の作品が時に中途半端に終わったかのように見えたにせよ、それは、答えの出ないテーマを敢えて選んで自ら苦しんだ結果に他ならない。そのまっすぐな姿勢は評価して然りだろう。

 少なくとも私はその点についてだけは大きく評価したいと思っている。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)小紫 煽尼采 YO--CHAN[*]

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