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[コメント] モンスターズ・インク(2001/米)

「まだほとんど言語を操ることのできない年齢の子供」というブーの設定は秀逸、であると同時に物語の根幹を成している。これはコミュニケーションについての映画だ。
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**ネタバレ注意**
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モンスターたちが人間の子供であるブーをまさに「モンスター」として恐れる理由のひとつは、ブーに対しては言語によるコミュニケーションが成り立たないからだ(逆に云えば、異形の者同士であるモンスターたちが恐れ合わないのは、彼らの間で言語的コミュニケーションが成立しているからだ)。それは主役であるサリーとマイクにあっても同様で、彼らとブーの間で満足に言葉の交換が果たされることはただの一度もない。それにもかかわらずサリーとマイクはブーと心を通わせていくのだから、その過程には言語によらない何らかのコミュニケーションが介在していたはずだ。

サリーとマイクが目を放した隙にブーが姿をくらまし、ふたりが必死になってブーを探す、という場面が劇中幾度となく反復される。これをとりあえず「かくれんぼ」と呼ぶなら、この「かくれんぼ」は間違いなくふたりとブーの間のコミュニケーションの一環を成している。なぜなら、サリーとマイクにとって「かくれんぼ」の目的とは相手(ブー)を見つけることであり、相手の存在を見つける=確認することはコミュニケーションの前提条件だからである。この「かくれんぼ」は確かに幼児の生理を忠実になぞったものでもあるだろうし、物語の展開やサスペンスの醸成に奉仕するものでもあろう。しかしながら、これは言語を欠いた者とのコミュニケーションを築くためにも必須の行為なのである。

この映画の中で私が最も心を打たれたのは、サリーがブーをレストランから自宅に連れ帰り、そこでブーがサリーを描いた「絵」を見せるシーンだ。この感動は、「絵」というものを介してサリーとブーの間で非言語的でありながらも正常以外のなにものでもない立派なコミュニケーションが成立したことへの感動である。したがってブーが人間の世界に帰った後、ブーを懐かしむサリーがこの「絵」を見るのはゆえなきことではない。この「絵」こそがふたりの間で初めてコミュニケーションが成立したときの記念物に他ならないからだ(たとえば、サリーがブーを思い出すためだけならば、ここで登場する品はブーの着ていた「着ぐるみ」でじゅうぶんだし、またそのほうがふさわしいだろう。しかし「着ぐるみ」ではサリーとブーとの間でコミュニケーションが成立していたことを証明する物には成りえないのだ)。

そして、多くの場合「サリーがブーを『抱える』」という形で為される「接触」(肌と肌を触れ合わせるという意味での、文字通りの「接触」)こそが、この映画における最大の非言語的コミュニケーションであることは云うまでもないだろう。「接触」は最も原初的であると同時に究極的なコミュニケーションなのだ。子供との「接触」はモンスターにとって禁忌であったはずなのだが、やむにやまれぬ事情があるとはいえ、サリーはあまりにあっさりとブーに「接触」することになる(あるいは、この「禁忌」はモンスターと子供のコミュニケーションを防ぐために設けられた「禁忌」であるのかもしれない)。その拍子抜けとも云えるあっさりぶりは観客としては大いに不満でもあるのだが、「抱えること」と「抱えられること」を通じて結ばれる全的な相互承認関係は間違いなく感動的であり、とりわけブーと長い体毛に覆われたサリーとの「接触」の質感を表現しえたCG技術の高さはやはり賞賛に値する。

モンスターズ・インク』を以上のように「コミュニケーションについての映画」として観るならば、この作品が子供に対するモンスターのコミュニケーションの仕方の変転(「驚かせる/怖がらせる」→「笑わせる」)を結末として持つのは妥当なことと云えるだろう。「笑わせる」ってそれモンスターとしてどーなの? という疑問は残るとしても。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)DSCH[*] Myurakz[*] ガリガリ博士

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