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[コメント] モンスターズ・インク(2001/米)

ユーモアのオブラートに包んであるが「世界は悲鳴を食い物にして回ってる」というリアルな世界収奪システムへの、さりげなくも切実な詠嘆が前フリとしてある。これが一気に機能不全に陥り転換して結実するラストの爽やかさ。反則だろうが何だろうが、「笑顔」への強い想いが胸を打つ正しい寓話で、ここでは「モンスター論」なぞ枝葉末節の重箱の隅。そして「名前」の映画。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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子どもは「好き」なものの名前から覚える。サリーを「ニャンコ」と呼ぶブー。その呼び名の正否は問題ではない。はっきりと発音されるのはこれと相棒の名前だけだ。たどたどしくも「好き」が全開放出される連呼に愛情が際立つ。名前を呼ぶという行為が持つ感動性が、まだ言葉の覚束ない女の子によって補強されている。別れのシーンでの連呼に耐える涙腺を、私は持ち合わせていない。

とりもなおさず、相手の名前を呼ぶ、名前をつけるという行為は感動的なのだ。それはイコール愛するということである。マイクにも「名前をつけると愛着がわく」と言わせている。 (異論は認める。『ダンボ』の例が示すように、名前をつける行為が暴力として作用することがある。だから、語弊があるとするなら、名前をつけるという行為は愛するという行為である「べき」だ、としておこう)

ちなみに、発音の難しいはずの「ワゾウスキ」をあっさり発音させるのも感動的だ。ネーミングの意図を当初図りかねたのだが、おそらくそういうことだろう。

3819695さんが指摘されている通り、これは「接触」の映画でもある。接触すると死ぬという、社=世界を支えるために捏造され流布された世界認識は、サリーやマイクによる「ふれあい」によってその嘘を暴かれていく。その「ふれあい」の象徴は言うまでもなく言語を超えた「手を繋いだ絵」。世界が小さくなることこそがいさかいを生むというリアルな言説は無視できないが、ここでは力を持たない。ここで感じる「あ、つながった」という感動をどうやって否定できるだろう。

一挙手一投足がことごとく涙を誘う『トイストーリー』までの奇跡的な充実はない。でもこれはいい映画だ。映画にはモンスターが必要だ。私は『エイリアン』が大好きだ。映画からモンスターがいなくなったら泣く。でも、世界=リアルにはモンスター(恐怖)はいらない。これはそういう映画だ。(ここで言う恐怖とは例えば戦争を指します。さりげないですが、序盤の企業CMでは、戦争の映像と思しきもの(銃声と悲鳴が聴こえるのみ)を観ている子供があくびをするシーンがあります。悲鳴に飽いた世界の恐ろしさをさりげなく伝えるシーンです。)だから、序盤の「モンスター不適格者」が、世界の転換後に居場所を見いだす終盤が泣かせるのだ。

世界は「モンスター不適格者」のためにある。悲鳴はもういらない。

(オープニングの圧倒的なセンス、ジョン・グッドマンスティーヴ・ブシェーミなどの配役も嬉しい)

(評価:★4)

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