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[コメント] 東京暮色(1957/日)

成瀬映画のヤルセナサを狙って真逆の収束。時代遅れの志賀直哉節。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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本作でまず目を引くのは珍しいキャスティングだ。小津映画唯一の登場となる山田五十鈴の他、藤原釜足(他は『宗方姉妹』のみ)、有馬稲子(他は『彼岸花』のみ)、信欣三など、小津らしからぬ顔ぶれが並ぶ。山田・藤原とくれば成瀬。そして娘の死や実の母親との別離が、絶望的に遣る瀬無く描かれる。玄関と座敷との間の硝子戸から切り取ったように顔が覗かれる美術は『残菊』にそっくりだし、いつも以上に路地の描写が細かい。本作は小津がライバル成瀬の世界に取り組んだ作品とみて間違いないと思う。しかし結果は正反対なものだった。

例えば原の亭主の信は訪問した笠智衆に対して、学者らしい空疎な返事を繰り返す。信は学者肌の戦後的な価値観を体現した人物像の造形で定評のあった人であり、小津はこれを何か皮肉っているように見える。また、有馬が補導された警察で、腰巻を盗んだ老人を警官が尋問し、老人は奇矯な声で同じ返事を二度する。昼間聞いたら頭のオカシイ人の声が深夜に聞いたら不気味に響くという訳だ。こういう描写を戦後の山本薩夫などはしなかっただろうし、貧乏人の味方である成瀬もしなかった。下層階級に同情のある者は気の毒だからそんなことはしない。小津は理解がないから堂々と描く。明治の自然主義小説(正確には大正の志賀直哉だろう)を地で行った、階級差を前面に出した酷薄な描写であり、本音主義のグロテスクな突き放し感がある。しかしそのために、有馬が放浪する夜の街に神経症的な切迫感が生まれているのも確かだ。実際はあんなものは退屈な光景でしかなく、怖がるのは子供っぽさの表れだろうが、子供っぽい視点が正に私小説の方法だ。

夫と反りが合わず実家に帰っていた原節子は最後に、全体を総括するように、母親がいないと子供が有馬みたいになるから家に戻る、と云う。二親揃って初めて一人前という、この結語は古い。これは上流社会の下層に転落しないための処世訓であり、貧乏人には馬鹿が多いと云う類の本音主義である。小津は死んだ私の親父みたいな人なのだろう。個人的に厭になる。これを『浮雲』でも『流れる』でも何でもいい、滅びゆく者たちに哀切を込めた成瀬映画と比べるなら、真逆の視点に立っているではないか。本作は小津が成瀬の衣を借りて正反対、滅んでたまるか旧世代と力んでいるように思える。結果は笠・原と中村伸郎・山田の全面的な行き違いであり、山田は原の見送りを空しく待つばかり。彼女に幸あれというニュアンスがなにもないヤルセナサは、北海道くんだり(!)へ出かける貧乏人にひどく冷たい。この映画、北海道での上映予定はなかったのかと思わせるほど彼の地にも冷たいのだった。

小津に「暗い」映画は山ほどあるが、本作が上記述べたようなことへの反応としてとりわけ暗いと云われているのであれば大いに頷きたい。演出としては暗さ不足で、『風の中の牝鶏』のクライマックスや『宗方姉妹』の豪雨(山村聰のあの背中!)のような強烈な山場に欠ける。そこも成瀬を意識して抑制したのだろうか。ただ、『東京の女』を想わせる味は捨てがたい。あのギョロ目の眼鏡の看板は凄すぎるし、有馬が男と語らう煙棚引く港の夜景は切なげに美しい。唸らされるのは宮口精二の刑事のマスクを引き継ぐ原のマスクで、刑事になった彼女の異様さはシュールの域に達している。夫の噂になると硬直したり、有馬の看病で感情を爆発させたり、原節子は流石だ。一方、有馬の重たさは適役だが美人過ぎる。あんなに嫌われるのはリアルと思えない。中北千枝子級の者が誰かいなかったのか。

(評価:★3)

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